汗だくのフランス語
作業車の荷台には、朝にはなかった荷物が増えていた。何かの検査が現場に入るらしく、今日だけ機材を持ち帰えって欲しいとのこと。
回収することになった機材や工具箱。
余った養生材。
折り畳まれた脚立。
資材の入った大きな袋。
後部座席にまで荷物を押し込んでも、どうしても一人分の場所が足りない。
班長が運転席から振り返った。
「サトシ、悪い。駅まで歩いてくれるか」
一番下っ端なのはサトシだった。
「はい。大丈夫です」
「今日は直帰でいいから。会社には伝えておく」
「はい。」
「暑いから気をつけて帰ってくれ、すまん」
駅までは十五分少々と聞いた。
荷物は重いが、歩けない距離ではない。
そう思ったのは、最初の五分までだった。
初夏とはいえ、その日は真夏のような暑さだった。
時刻は十五時を過ぎたところだ。
午後のキツい日差しに焼かれたアスファルトからは熱が上がり、作業靴の底を通して足まで熱くなる。
右手には工具袋。
左肩には着替えや水筒を入れた大きなバッグ。
入りきらなかったヘルメットが、工具袋の持ち手に引っ掛けてある。
歩くたびに、硬い帽体が袋へぶつかった。
かこ。
かこ。
かこ。
「うるさいな……」
遮蔽物もなく、誰もいない歩道で、サトシは小さく呟いた。
背中にはすでに汗が流れていた。
冷感タイプのインナーですら汗で濡れていた。
長袖のインナーの上に着た作業シャツもしっとり湿っていて、作業ズボンももちろん湿っていた。
途中で荷物を一度下ろし、首に巻いていたタオルで顔を拭いた。
タオルは簡単に絞れるほど濡れていた。
駅へ着く頃には、髪の先から汗が落ちていた。
このまま電車へ乗るのはまずい。
サトシは駅前のトイレへ入った。
個室でインナーと作業シャツを脱ぎ、キツく絞ったタオルで首、胸、脇、背中を拭く。
汗拭きシートは、昼休みに使い切っていた。
水道の前へ戻り、蛇口の下へ頭を入れる。
ぬるい水が、汗と埃のついた髪を流れた。
切りそびれて伸びた髪の毛が、顔につき不愉快だった。
冷たさを期待していたぶん、余計に暑く感じる。
「水までぬるいのか」
頭をタオルで拭き、びっしょり濡れていたインナーは袋にねじ込み、作業シャツだけ着直した。
多少はましになった。
多少は…。
サトシは自分の肩口へ顔を近づけた。
汗と埃と、金属のような現場の匂い。
臭くない、とは言い切れない。
鏡を見る。
日に焼けた大柄な男。
濡れた髪。
湿った作業着。
大きな荷物が二つ。
工具袋から飛び出したヘルメット。
どう考えても、電車で近くにはいたくない人間だった。
「これで電車か……」
サトシは重い荷物を持ち直した。
ホームへ入ってきた常磐線は、思ったより空いていた。
座席にも空きがある。
だがサトシはドア脇へ立った。
座れば、椅子を汗で湿らせるかもしれない。
荷物を足元へ寄せ、手すりを握る。
電車が走り出す。
揺れるたびに荷物が動き、ヘルメットが工具袋へ当たった。
かこ。
かこ。
サトシは慌てて手で押さえた。
近くの乗客がこちらを見た気がした。
申し訳ない。
少し離れた方がいいのだろうが、荷物が大きくて動きにくい。
視線が痛い。
やはり臭うのだろうか。
腕を上げない方がいい。
タオルで首を拭くのも、かえって目立つかもしれない。
サトシはできるだけ小さくなろうとしたが、大柄な身体と大きな荷物では、ほとんど無理な話だった。
電車が江戸川を渡り始める。
窓の外に川面が広がった。
川を越えれば東京だ。
あと少し。
日暮里まで行けば乗り換えられる。
その時、車内の向こうから外国語が聞こえた。
フランス語だった。
若い男女が並んで座っている。
大きなリュックと旅行鞄。
手には観光地図とスマートフォン。
観光客らしい。
女性が窓の外を指した。
« Regarde ! C’est la tour de Tokyo ? »
――見て。あれが東京タワー?
男性も窓へ顔を寄せる。
« Oui, peut-être. Notre hôtel est à Asakusa. Nous devons descendre bientôt. »
――たぶんそうだよ。ホテルは浅草だから、もうすぐ降りないと。
サトシは窓の外を見た。
遠くに見えているのは東京スカイツリーだった。
東京タワーではない。
浅草へ行こうとしていることも分かった。
だが次の駅で降りようとしているのは、明らかにおかしい。
問題は、サトシ自身も正しい経路を知らないことだった。
長く海外にいたため、東京へ戻ってからも電車の路線はまだよく分からない。
常磐線も、寮と現場を往復するために覚えただけだった。
二人はスマートフォンをしまい、荷物を持ち始めた。
次の駅で降りるつもりだ。
「まずいな……」
正しい行き方は分からない。
だが、間違っていることだけは分かる。
サトシは仕方なく荷物を持ち上げた。
二人へ近づく。
ただし、あまり近づきすぎないよう、少し距離を空けた。
« Excusez-moi. Je suis désolé de vous déranger. »
――すみません。お邪魔して申し訳ありません。
二人が振り返った。
一瞬、驚いた顔をする。
当然だった。
汗で濡れた作業着姿の大男が、突然流暢なフランス語を話したのだから。
サトシは窓の外を指した。
« La tour que vous voyez là-bas n’est pas la tour de Tokyo. C’est la Tokyo Skytree. »
――向こうに見えている塔は東京タワーではありません。東京スカイツリーです。
女性が目を丸くした。
« La Skytree ? »
« Oui. Et si votre hôtel est à Asakusa, je pense que vous ne devez pas descendre ici. »
――はい。それからホテルが浅草なら、ここで降りるべきではないと思います。
男性がスマートフォンを差し出した。
« Vous savez comment aller à cet hôtel ? »
――このホテルへの行き方をご存じですか?
サトシは画面を見る。
浅草のホテルであることは間違いない。
だが、経路までは分からなかった。
« Pas exactement. Attendez un instant. »
――正確には分かりません。少し待ってください。
サトシは車内を見回した。
近くの座席に、三十代くらいの女性が座っていた。
先ほどから会話を聞いていたらしく、サトシと目が合うと少し驚いた顔をした。
「すみません」
サトシは日本語で声をかけた。
「浅草へ行くには、どこで乗り換えるのが分かりやすいですか」
突然、汗だくの大柄な男に話しかけられ、女性は一瞬言葉に詰まった。
「あ、浅草ですか?」
「はい。この方たちが浅草のホテルへ行くそうなんですが、次の駅で降りようとしていて」
女性は路線を思い浮かべるように少し考えた。
「それなら、南千住で降りて、つくばエクスプレスに乗り換えるのが分かりやすいと思います」
「南千住」
「はい。秋葉原方面に乗って、次が浅草です」
「分かりました。ありがとうございます」
サトシは丁寧に頭を下げた。
女性は小さく笑った。
「間に合ってよかったですね」
「助かりました。俺も東京の電車はあまり詳しくなくて」
そう言って、サトシはフランス人カップルへ戻った。
女性観光客がスマートフォンを見せる。
画面には地図とホテルの住所が表示されていた。
サトシは画面をのぞき込もうとした。
だが、自分から近づくのはためらわれる。
汗臭かったら申し訳ない。
腕だけを伸ばし、少し離れたまま画面を確認する。
女性が笑いながら言った。
« Vous pouvez vous approcher. »
――もっと近くに来て大丈夫ですよ。
« Merci, mais je rentre du travail. Je suis probablement un peu sale. »
――ありがとうございます。でも仕事帰りなので、たぶん少し汚れています。
「少しではないな」と自分では思っていた。
それでも画面の文字が小さく、結局少しだけ身をかがめる。
濡れた髪が額へ落ちる。
湿った作業シャツが、肩と背中へ張りついていた。
道を教えた女性が、思わずサトシを目で追った。
近くの若い女性たちも、会話を聞きながら何度もこちらを見ている。
男性客もまた、新聞やスマートフォンから顔を上げていた。
――何なんだ、あの作業員は。
車内の何人もが同じことを思っていた。
サトシはスマートフォンの画面へ経路を表示しながら説明した。
« Vous descendez à Minami-senju. Ensuite, vous prenez le Tsukuba Express en direction d’Akihabara. Asakusa est la station suivante. »
――南千住で降りてください。それから、つくばエクスプレスの秋葉原方面へ乗ります。浅草は次の駅です。
日本語の駅名も併記し、スマートフォンのメモ欄へ順番に入力する。
Minami-senju.
Tsukuba Express.
Direction Akihabara.
Asakusa.
二人はサトシの説明を真剣に聞いていた。
その間、車内には小さなざわめきが広がっていた。
汗で濡れた黒髪。
日に焼けた肌。
作業で鍛えられた肩と腕。
大きな工具袋を片手で押さえながら、よどみなくフランス語を話している。
見た目と話している言葉の組み合わせが、あまりにも不思議だった。
近くにいた若い女性が、隣の友人へ小声で話した。
「ねえ、あの人、フランス語?」
「うん。すごくない?」
少し離れた男性客も、サトシをちらりと見る。
作業着。
工具袋。
ヘルメット。
流暢なフランス語。
どう考えても情報がつながらない。
フランス人の女性が尋ねた。
« Vous parlez très bien français. »
――フランス語がとてもお上手ですね。
« Merci. J’ai étudié en Suisse. »
――ありがとうございます。スイスで学びました。
道を教えた女性が、小さく反応した。
「スイス……?」
作業着姿の大柄な男。
流暢なフランス語。
スイス。
車内の違和感が、さらに大きくなる。
サトシは二人へ経路を説明し終えると、先ほどの女性客へもう一度頭を下げた。
「ありがとうございました。南千住で乗り換えるよう伝えました」
「いえ。間に合ってよかったです」
女性は答えながらも、何か気になっているようだった。
少し迷ったあと、遠慮がちに尋ねる。
「あの……スイスって聞こえたんですけど」
「はい」
「あの方たち、スイスからの観光客だったんですか?」
サトシは一瞬きょとんとした。
それから質問の意味を理解し、少し笑った。
「いや、俺がスイスにいたということを伝えただけですよ」
「え?」
女性の目が大きくなる。
「ああ、だからフランス語が」
「はい。子供の頃に」
「子供の頃?」
「十四歳から、学校がスイスだったので」
女性の隣に座っていた友人が、思わず顔を上げた。
向かい側の男性客も、持っていたスマートフォンから視線を外す。
汗に濡れた作業着。
首へ巻いたタオル。
大きな工具袋。
その男が、ごく普通の調子で十四歳からスイスにいたと話している。
女性は驚きを隠せないまま尋ねた。
「ずっとスイスにいらしたんですか?」
「いえ。その後はイギリスです」
車内の空気が、また微かに動いた。
先ほどまでサトシを眺めていた若い女性たちが、そっと顔を見合わせる。
少し離れた男性は、眉を上げた。
――スイスの次はイギリス?
――それで、今はこの格好で何をしている?
誰も口には出さなかったが、車内の人間がほとんど同じ疑問を抱いていた。
女性も同じだった。
「イギリスにも、長く?」
「大学と大学院が向こうだったので」
「大学院……」
女性の視線が、一瞬サトシの作業着へ落ちる。
サトシはそれに気づいた。
やはり不自然なのだろう。
「今は建設現場で働いています」
聞かれる前に説明すると、女性は慌てて首を振った。
「あっ、変だと思ったわけじゃなくて」
「大丈夫です。よく驚かれますから」
サトシは少し笑った。
その笑顔を見て、女性は一瞬言葉を失った。
向かいに座っていた男性客も、再びサトシを見る。
日に焼けた顔。
鍛えられた肩と腕。
濡れた黒髪。
流暢なフランス語。
そこへ、スイスとイギリスと大学院が加わった。
男から見ても、情報の組み合わせがおかしかった。
――本当に何なんだ、こいつは。
その疑問が顔に出ていた。
サトシは周囲の視線が強くなったことに気づき、居心地が悪くなる。
話し声が大きかっただろうか。
それとも、やはり汗の匂いだろうか。
女性客から少し距離を取ろうとして、足元の工具袋を引き寄せる。
ヘルメットが当たった。
かこん。
車内へ間の抜けた音が響く。
サトシは慌てて袋を押さえた。
「すみません」
周囲へ小さく頭を下げる。
その拍子に、濡れた髪が額へ落ちた。
サトシは片手で髪をかき上げる。
近くにいた若い女性が、息を呑んだ。
隣の友人が無言でその腕をつかむ。
道を教えた女性も、ついその動きを目で追ってしまった。
サトシは視線を感じ、さらに不安になった。
近づいた時、汗臭かったのかもしれない。
「すみません。仕事帰りで、汗臭いかもしれなくて」
女性は思わず言った。
「いえ、全然!」
声が少し大きくなった。
周囲の何人かが振り返る。
女性は恥ずかしそうに声を落とした。
「本当に、気になりませんから」
「そうですか。ありがとうございます」
サトシは安心したように笑った。
また車内が微かにざわついた。
フランス人の女性が、その様子を見ながら恋人へ小声で言った。
« Il ne se rend vraiment compte de rien. »
――あの人、本当に何も気づいていないのね。
男性は笑いをこらえながらうなずいた。
サトシには聞こえていた。
だが、何に気づいていないのかは分からなかった。
浅草への行き方についてだろうか。
電車が揺れた。
女性観光客が身体を崩しそうになる。
サトシは反射的に片手を伸ばし、女性の腕を支えた。
もう片方の手では、大きな工具袋を押さえたままだった。
「大丈夫ですか」
思わず日本語になった。
女性は驚きながらも笑い、フランス語で礼を言う。
サトシはすぐに手を離し、また距離を取った。
車内では、さらに小さなざわめきが起きた。
女性客だけではなかった。
男性客たちも、無言でサトシを見ている。
フランス語を話す。
十四歳からスイス。
その後はイギリス。
大学院卒。
現在は建設現場。
そして、重い工具袋を片手で押さえながら人を支える。
情報が増えるほど、ますます正体が分からない。
サトシ本人は、車内の視線を感じて顔を曇らせていた。
やはり相当汗臭いらしい。
南千住が近づく。
サトシはカップルの大きな旅行鞄を見た。
「持ちますよ」
日本語で言ってから、フランス語で言い直す。
男性が断るより先に、旅行鞄を片手で持ち上げた。
もう片方の手には自分の工具袋。
濡れた作業着の背中に、筋肉の線が浮かぶ。
車内の女性たちは無言になった。
男性客たちもまた、黙ってサトシを見る。
――フランス語だけじゃないのか。
――普通に力もあるのか。
――本当に何なんだ、あいつは。
サトシは全員の視線を感じながら、申し訳なさそうに身体を小さくした。
大きな荷物を二つ持った大柄な身体は、まったく小さくならなかった。
電車が南千住へ着いた。
サトシは旅行鞄をホームへ下ろす。
二人は何度も礼を言った。
女性が笑う。
« Merci, monsieur. Vous êtes très gentil. »
――ありがとう。とても親切な方ですね。
サトシは軽く頭を下げた。
« Bon voyage. »
――よい旅を。
ドアが閉まる。
ホームから二人が手を振った。
サトシも小さく手を上げた。
電車が動き出す。
車内に残った乗客たちの視線が、まだ自分へ向いていた。
サトシは首のタオルを握った。
先ほどより見られている。
やはり臭うのだろうか。
もう一度、どこかのトイレへ寄った方がいいかもしれない。
少し離れたところで、二人の女性が小声で話していた。
「話しかけたいけど、無理だよね」
「無理。あんな格好いい人、緊張する」
向かい側の男性客は、サトシを見ながら首をかしげていた。
「何者なんだ、あいつ……」
サトシには、どちらも聞こえなかった。
彼はヘルメットが鳴らないよう、工具袋を両脚でしっかり挟んだ。
かこ。
それでも一度だけ鳴った。
サトシは小さくため息をついた。
「早く風呂に入りたい……」
本人だけが、自分が車内で一番目立っていることを最後まで知らなかった。